こんにちは。
T・たまもです。
八月なので、平和に関する教材について考えています。
原爆の教材だけでこんなに長くなるとは。
今日は、「長崎の原爆」を扱った作品について。
第二次世界大戦のうち、2「長崎の原爆」を扱った作品で私が授業をしたことがあるのは「空き缶」。
林京子の作品はほかに「ギヤマンビードロ」も教材としては定番です。
林京子の作品は、「原爆」という体験を経た人間が生きていくとはどういうことなのか、を追究している感じがします。
そこが「夏の花」のような被爆の直前直後を描いた作品との違いでしょう。
当然そこには比較対象として「原爆」を体験していない人間の人生があります。
もちろん、立場や性格や年齢や様々な要素で様々なグラデーションがあります。
たとえば原爆を体験していると一口に言っても、家の中にいたのか外にいたのか、学校にいたのか駅にいたのか、と言うような偶然の条件の違いで、それこそ無傷か黒焦げかの境目になった人も多いはずです。
まして、被爆者かそうでないか、はその後の人生にとてつもない差をつけることになります。
「空き缶」の場合は、同じ女学校の同窓生という一見同条件の現在から、6人の登場人物のグラデーションを整理していくことが指導のポイントのひとつでしょう。
そうすることで、被爆者でなければわからない悲惨と、平和の中に生きる自分が地続きであることを、学習者が理解する手がかりになるのではないかと思います。
原爆が与えた傷が、現在までずうっと被爆者の体にも心にもダメージを与え続けている、という体内のガラスのエピソードはメタファーとしてわかりやすいですね。
両親の遺骨を入れた空き缶のエピソードは、戦争がもたらした惨劇、日常を破壊された者の悲しみのメタファーと言ってしまうのは簡単です。
しかも登場人物のうち、この「きぬ子」だけは人の話と回想のみしか出てきません。
が、題名になっている以上、こちらの方が作者のとっては主題に直結するエピソードのはず。
そのうち、もう少し検討してみたいなあと思います。