T's Cafe

小さな私の体験が、もしかしたら大きなヒントになる・・・かもしれません。前は学校の先生、今は自適のご隠居とおしゃべりしましょ。

どんなに賢くても知らないことはある・・・漢文「論語」知るを知ると為し

  こんにちは。

 T・たまもです。

今日は、漢文です。

 

子曰く、「由(ゆう)や、女(なんじ)に之(これ)を知ることを誨(おし)えんか。
  之(これ)を知るを之(これ)を知ると為し、知らざるを知らざると為す。
  是れ(これ)知るなり。」と。

 

 (先生がおっしゃるには「由や、あなたに知ると言うことはどのようなことなのか教えましょう。自分が知っていることを知っていると認識し、知らないことを知らないとはっきりと認識する。これが物事に対して「知る」と言うことです。」と。)


 余りにも有名な「論語」の一節。

 私は、学問というか、人のあり方というか、そういうものの教えだと勝手に解釈して、戒めとしていたものです。

 「子」とは、儒教の祖、孔子

 由は、子路と言う弟子。

 乱暴者だけれど一本気で、気取りのない子路は、孔子に愛された弟子のひとりです。

 でも、きっと賢さ、という点では子路は他の弟子にコンプレックスを持っていたのでしょうね。

 思わず知ったかぶりをして、師の孔子を悩ませることがあったのではないでしょうか。

 

 神様ではない以上、人間はどんなに賢くても知らないことはあります。

 それは恥ずかしいことではないし、むしろ勉強しようというモチベーションになることです。

 じゃまになるのは、中途半端な知識を鼻にかけたり、それによってきちんと勉強しようとしなくなること。

 知っているコトと知らないコトをきちんと区別できる、他人に対してもそれをちゃんと言える、知っているコトを惜しげなく教え、知らないコトをすなおに教えを請う、それが知を追究する者のあるべき姿なのだと思います。

 自分を振り返るに、ついよく知りもしないのに知ったふりをしたことがどれほどあることでしょう。