T's Cafe

小さな私の体験が、もしかしたら大きなヒントになる・・・かもしれません。前は学校の先生、今は自適のご隠居とおしゃべりしましょ。

横断歩道で勝負する

 こんにちは。

 T・たまもです。

 きょうはみちくさ。

 名古屋の歩行者は大変マナーがよろしいが、車は「名古屋走り」と異名を取る乱暴な運転手が今でも多い(もちろん、横断歩道も止まらない)・・・

 という新聞記事を読みました。

 で、歩行者(特に子供)が横断歩道で止まってくれた車にお礼のお辞儀をするようにさせているそうです。

 いずれその子どもたちが大人になって車の運転手になった暁には・・・

 という誠に遠大なというか、のんきな展望の話だったのです。

 そういえば、名古屋に住んでいたことがある知人が、

「東京の車は横断歩道で止まってくれない」

 とぼやいていたことがありました。

 その時は名古屋のクルマって止まってくれるんだ、と思ったものでした。

 その方の住んでいた地域がたまたまそういうクルマが多かったのかもしれませんけど。

 東京のクルマは、

「絶対横断するぞ!」

というアピールが歩行者側にないと、確かに止まってくれないかもしれない。

 そう、

「絶対に横断するぞ!止まれや!クルマにはその義務があるだろ!!」

というアピールです。

 気持ちは態度に表さないと相手にはわかりません。

 横断歩道で(たとえ歩行者信号が赤でも)人をはねたら、クルマが悪い。

 とはいえ、クルマにはねられたら最悪死にます。

 なので、普通は悪者になりたくないクルマと、死にたくない歩行者は視線が交差する一瞬、勝負をすることになります。

 つまり、歩行者はクルマの方を見て、

「止まるのはそっちだよね?」

 という視線をおくり、横断せんとする足をゆるめてはいけない。

 足をゆるめたら最後、相手のクルマは

「止まらなくて良いんだよね?」

とばかり通過していきます。

 チキンレースですね。

 もちろん、いつでも足を止められるようにしておくことは大事ですよ。

 ときどき、歩行者に勝とうとする無謀なクルマはいますからね。

 クルマが止まったら、歩行者はにっこりと勝ち誇・・・じゃなくて感謝の笑みを浮かべて運転手に会釈して、モデルがステージを歩くごとく横断いたしましょう。

 なんて、昔、いきまいていたら、友達に

「たまもちゃん、いつかはねられて死ぬよ・・・」

 と冷たく言われたものです・・・。

みんな修羅場なんだ・・・

 こんにちは。

 T・たまもです。

 今日もみちくさ。

 

 先日「キャプテン翼」の作者である高橋陽一氏が「引退宣言」をしましたね。

 翼クンは確か始まったころ小学生くらいのサッカー少年。

 今何してるんだろ・・・?

 くらいの知識しかありませんが、もちろん私さえ知っている有名人です。

 顔だけちっとも老けないでカラダが大きくなっているイメージ。

 鳥山明氏が亡くなったので、もう少しのんびりした環境にしないとオレも早死にするかも・・・と思ったのかどうか。

 もうずいぶん前に少女週刊誌はのきなみ隔週誌になったのに、少年週刊誌はいまだホントに週刊ですよね。

 どれほど過酷な現場なんでしょうか。

 漫画家が毎週修羅場、締め切りに追われているというのは昔から有名な話ですが。

 昔、出版社の採用面接で

「少年漫画の編集をしてみたい」

 と言ったら、面接官に鼻で笑われましたっけ。

「少年漫画?いやあ、少年漫画の現場って厳しいんですよ」

 と、面接官全員が苦笑いどころじゃなくてホントに鼻で笑うってこういうのね、って感じでしたよ。

 少女漫画だって週刊誌に描いていた私の好きな漫画家がみんな月刊誌に移動していったのは、このせいが大きいのではないだろうか・・・。

 もちろん、連載がひとつ落ちれば売り上げや信用に関わります。

 雑誌(と出版社)にとっては、漫画だけでなくどんなジャンルでも、編集者も作家も修羅場なんだとは思うけれど。

 そう考えれば、作家にとっては「漫画制作」は引退して、web上でネーム段階の創作を「自分のペースで」発表するというのも作家生命を延ばす一手段なのかもしれません。

 現代ならでは、ですね・・・。

自分の食べたいものは自分で作る?

 こんにちは。

 T・たまもです。

 今日はみちくさ。

 お料理、しますか?

 自炊、という言葉は、ひとり暮らしの人限定で使われることが多い気がします。

 カップルで住んでいるとその関係が恋人にせよ夫婦にせよ、基本的に女がすることになっているような気がするのは気のせいでしょうか。

 同性のカップルなら、得意な方がするのかな。

「昨日何食べた?」はそうですよね。

 で、自炊とは言わない。

 今辞書を引いたら、

「(独身者などが)自分で食事をこしらえること」

 とありました。

 やっぱりひとり暮らし前提の用語らしい。

 さて、なんでそんな話になったかというと、今ウチの旦那が台所でなんかやっているから。

 麺をゆでるのとステーキを焼くのしか出来なかった彼は、今や蕎麦打ちまでする人です。

 もっとも、面倒な料理(揚げ物とか。私もやりたくないよ)だと、材料そろえて後はよろしくと丸投げされることもしばしば。

 自分の食べたいものは自分で作るのが一番なんだけどね。

 なぜなら人に作ってもらうと希望と違うものが出てきても文句を付けづらいから。

 (付けるのならそれなりの覚悟が必要です)

 ところで、かぐや姫の往年の名曲、「妹」ではお兄ちゃんが結婚する妹に「あの味噌汁の作り方を書いていけ」と言っています。

 私がこの曲をちゃんと聴いたのは、それこそ結婚する前の旦那の車の中でした。

「料理をしない男の人って味噌汁の作り方も知らないの?」

 と衝撃でした。

 小学校の家庭科実習でやったよね?

 これが酢豚とかクリームコロッケとか、ややこしい料理ならともかく。

 それとも何か特別な味噌汁なのか?

 下ごしらえが特別な芋煮汁とか、特別な酒粕を使う粕汁とか?

 せっかくのドライブデート中、考え込む私なのでした。

 

 水にいりこ(またはかつおぶし)とワカメと豆腐を入れて煮立てたらみそを溶き入れる。

 以上。

 料理をしない人にはハードル高いのね・・・。

 作り方を聞くということは自炊する気満々のお兄ちゃん。

 翌日からの食生活が気になりましたわ。

本格的な引っ越しをするために・・・「更級日記」その5

 こんにちは。

 T・たまもです。

 「更級日記」のつづきです。

 

 門出したる所は、めぐりなどもなくて、かりそめの茅屋の、しとみなどもなし。

 簾かけ、幕など引きたり。

 南ははるかに野のかた見やらる。ひむがし西は海ちかくて、いとおもしろし。

 ゆふぎり立ち渡りて、いみじうをかしければ、朝寝(あさい)などもせず、かたがた見つゝ、ここをたちなむこともあはれに悲しきに、同じ月の十五日、雨かきくらし降るに、境を出でて、しもつさの国のいかたといふ所に泊まりぬ。

 庵(いお)なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐ろしくていもねられず。

 野中に岡だちたる所に、たゞ木ぞ三つたてる。

 その日は雨にぬれたる物ども乾し、国にたちおくれたる人々待つとて、そこに日を暮らしつ。

 

 京の都へ帰ることになった菅原孝標一家。

 菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ・以下サラちゃん)はお兄さんとお姉さんと継母と父の5人家族。

 ちなみに実母は「上総のような田舎には下りたくない」ということで京に残っています。   

 サラちゃん一家とお供の使用人は本格的な引っ越しをするために仮屋敷に移ります。

 おそらくは家族の家財道具を京都の住居へ別便で運んだのでしょう。

 京都までの各地での宿泊はその土地の有力者の自宅を借ります。

 移動手段(徒歩・輿や牛車や馬を含む)の手配もあるでしょう。

 いくら気のきく執事がいたとしても、現代のように「○○引越センターにお任せ」というわけにはいきません。

 とはいえ、サラちゃんは主人一家の子供ですし、仕事があるわけでもなく、荷物を持つわけでもなく、ほとんど冒険する旅人気分。

「泊まる家がボロくてヤバいわ!」

「海が近くでステキね!」

「大雨が降ってコワいわ!」

 と、キョロキョロしています。

 この旅の様子はとても良く描かれていて、後世、地域研究の参考にされています。

 サラちゃんは13歳当時から日記を付けていて、それを元にこの部分を書いたのでしょうね。

 教科書では、いきなり舞台はあこがれの京の都に移り、あこがれの物語の本を手に入れたサラちゃんの耽溺と妄想が炸裂する段が採録されることが多いです。

 そのお話はまたの機会に。

子供の「勉強する」はうかつに信用してはいけません・・・「更級日記」その4

 こんにちは。

 T・たまもです。

 「更級日記」のつづきです。

 

 いみじく心もとなきまゝに、等身に薬師仏をつくりて、手あらひなどして、人まにみそかに入りつゝ、「京にとく上げ給ひて、物語のおほく候ふなる、あるかぎり見せ給へ」と、身を捨てて額をつき、祈り申すほどに、十三になる年、のぼらむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所にうつる。

年ごろあそびなれつるところを、あらはにこぼち散らして、たちさわぎて、日の入りぎはの、いとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとて、うち見やりたれば、人まにはまゐりつつ、額をつきし薬師仏の立ち給へるを、見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。

 

京から遠く離れた上総の地では物語をもっと読みたいと思った菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ・以下サラちゃん)。

 なければ欲しくなるのが人の情というもの。

 当時は印刷技術もないので、本を読みたければ写本を取り寄せるか、借りて自分で書き写すしかありません。

 まして、上総のような田舎では、そもそも写本自体持っている人がほとんどいなかったでしょう。

 そうなると、上総でつてを捜しまわるより、京に帰ったほうが話が早いかも。

 というわけで、サラちゃんが頼ったのは仏様。

 神様でも良かったのでしょうが、仏様の方がスポンサーであるお父上のOKが出やすかったのかもしれませんね。

 「私、一生懸命勉強(もちろん、仏典ね。女子なので四書五経ではなくてもOKでしょう)するから!まずは拝むための自分だけの仏像が欲しい!」

 勉強するツールにするからとスマホをねだる現代っ子とあまり変わりないですね。

 そして現代っ子は手に入れたスマホではゲームをしたりします。

 サラちゃんも仏間では勉強するのではなく五体投地して拝みます。

 その内容は

「京都に帰ってたくさん物語を読ませてもらえますように!」

 なのでした。

 子供の「勉強する」はうかつに信用してはいけません。

 サラちゃんが13歳になった年、父上である孝標の帰京が決まります。

 受領階級の良いところは田舎で荒稼ぎできること。

 孝標もそれなりに資産を蓄えたことでしょう。

 引っ越しするに当たって、せっかく作った仏像は置いていきます。

 家財道具一式なくなって外から部屋の中は丸見え状態です。

 仏像だけが残されているというのは違和感がありますね。

 でもこの仏像が放置されている件については、

「わびしさと罪悪感があるよね~」

で授業はすませていました。

 だって理由がわからないんですもの。

 荷物になるからなのか、サラちゃんの「願い」が叶ったからなのか、孝標が「勉強するってサラは言ったが、全く御利益がなかった」と怒ったからか、定かではありません。

 高価なものでしょうから、売却したのかもしれませんね。

 つづく。

字は読めるけれど、当時の女子ならば・・・「更級日記」その3

 こんにちは。

 T・たまもです。

 「更級日記」を読みましょうと言うことで、今回はやっと本文です。

 

 あづま路の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめける事にか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつゝ、つれづれなる昼ま、宵ゐなどに、姉継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光る源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふまゝに、そらに、いかでかおぼえ語らむ。

 

 すごいですね、これで一文です。

 平安時代はまだ句読点がありませんが、付けるとするとここまででやっとマル。

 なんだか気合いが入っているような気がするのは私だけでしょうか。

 菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ・以下サラちゃん)が生まれたのは、本当は京都です。

 西暦1008年。

 お父さんの上総介(かずさのすけ)就任は1017年ですから、上総に行ったのは数えで10歳ということになります。

 まあ、字は読めるけれど、当時の女子ならば、絵巻を見つつ、召使いや年上の家族が物語を読み聞かせるくらいの年齢、ということでしょう。

 それも物語はどちらかというと娯楽であって、「読書」というか「勉強」は漢文や経文を読む事ではなかったかと思われます。

 紫式部は兄弟に漢文を講義されているのを横で聞いていて兄弟より早く理解したそうですが。

 サラちゃんもお兄さんが漢文を習うそばにいたのでしょうけれど、きっとつまらなかったんだろうなあ。

 そして、物語を「自分で読む」楽しさを知らないうちに上総に引っ越したと思われます。

 教養深い継母といえど、物語の本をたくさん持っていくことはできなかったようですね。

「持っていくなら四書五経と仏典!!」

と、お父さんが押し切ったのではないだろうか。

「たった4年だ、なくても大丈夫。なんなら取り寄せれば・・・」

なんて安請け合いしてね。

 もちろん、上総で手に入れることなどなかなかできない。

 というわけで、サラちゃんは周りの女性達が「覚えている範囲で語れること」しか聞くことが出来ないわけです。

 源氏物語みたいに長い、何巻もあるような物語なんて、その中の一冊、どころか絵が一枚しかなかったりしてね。

 それを見て、

「あら、これは若紫とすずめねえ。向こうに光源氏の君が描かれてるわ。この後、光源氏が若紫を引き取るのよね」

なんて継母が言ったりね。

「それで2人はどうなるの」

「ああだこうだあって結婚するのよ~」

「ああだこうだって?」

「いろいろよ~」

 サラちゃんがイライラしてくるのが目に見えるようですね。

「いろいろの詳細が知りたいのよ!」

って。

 つづく。

「東路の道の果て」・・・「更級日記」その2

 こんにちは。

 T・たまもです。

 前回は、「更級日記」の本文に入る前に女性の名前について考えてみました。

 今日もまだ本文ではありません。まあ冒頭の文節、でしょうか。

 高等学校の教科書に採録されるのは、「更級日記」の冒頭と、半ば、最後が多いようです。

 授業でやるのは冒頭だけということもあります。

 最近はさらに古典の授業時数が減ってるから、どうなのでしょう。

 教科書では冒頭部分には「東路の道の果て」とか、「門出」とか、「あこがれ」とか、小見出しが付けてあります。

 「東路の道の果て」は文字通り文章の最初の部分ですが、日記の出発地点(物理的にも内容的にも)を意味します。

 菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ・以下サラちゃん)が物語に興味を持ち、都へ上京することになった顛末が描かれている部分です。

 「門出」は、「上京することになった」のを強調する見出しですね。

 「あこがれ」は、彼女の一生を左右(大げさですが、オタクにはありがち)することになった「源氏物語」への思いを強調する見出しです。

 現在の千葉県市原市には当時の上総国国府があったということで、サラちゃんの銅像が建っているそうな。

 市原市には「更級」という地名もあるそうですが、ウィキによれば「更級」という語は作中にはないそうです。

 「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」という歌が作中にあります。

 その歌の本歌の中に「更科や姨捨山云々」と出てくるそうです。

 私も、「さらしな」という言葉を聞いてまず思い出すのは信濃国にあったという更科郡。

 うばすて山と聞いたらなおさらです。

 サラちゃんの夫は信濃国守であった橘俊通(たちばなのとしみち)ですしね。

 そうしてみると、題名ひとつとってもなかなか凝っているような感じもします。

 ちなみに私は個人的に「東路の道の果て」が、サラちゃんの自虐的なオタクっぽさを表現していて好き。

 つづく。