こんにちは。
T・たまもです。
昨日の続きです。清岡卓行の「手の変幻」という作品を取りあげています。
今日は構成について。
三段構成の評論です。
私は当然のように尾括式と思っていたのですが、ある指導書に頭括式の構成と書いてあったことがあって、ものすごく焦ったことがあります。
改めて読み直して、
「いやいや、やっぱり結論は最後でしょ」
という結論に至ったのですが。
第一段の
「腕が失われることによってミロのヴィーナスはより美しくなった」
というのを筆者の主張ととらえてしまうと、起きる勘違いかと思います。
表現を変えて何度となく繰り返されるので、なんだか筆者が一番言いたいことみたいに感じてしまうのも無理はないのですが。
最後の一文までダメ押しに書いてあるし。
もちろん、筆者がミロのヴィーナスを見て感動したのはまちがいなく、ただそこで
「腕がない(つまり不完全)のになぜ腕がある(つまり完全)より美しいのだろう?」
という問題提起がされたと考えなければ、評論にはなりません。
完全=美という常識が覆されるのが疑問の出発点です。
第二段では完全←→不完全の対立というより、有←→無、現実←→夢の対立の問題なのだと看破しています。
そして第三段。
手は人間にとって「交渉の手段」の「象徴」です。
こころが誰かと何らかの関係を作りたいと願うとき、人は手にそれを担わせます。
手紙を書くのも、メールを打つのも、頭をなでるのも、握手するのも、抱きしめるのも、殴るのも、中指を立てるのも、手の仕事です。
(まあ、たまに足蹴にするときもありますが。)
「失われた両腕が他のあらゆる腕を想起させる」しかけ、という筆者の指摘をひきたてるために、いつも私が対立する発想として挙げていたのが千手観音です。
千手観音はその手に様々なものを持って、衆生を救います。
その持ち物によって、どんな関係を作りたいかを表現していることになります。
でもしょせんは見える手の表現には限界があるし、実際のところどんなに美しい千手観音も人間としては蛇足の姿です。
ミロのヴィーナスは、人間としては不完全な姿でも、その意味で「見えない手」を「無限」に持っている。
話は「手というものの人間存在における象徴的な意味」に収斂するというわけです。
なんだか抽象的な話になってしまいましたね。