こんにちは。
T・たまもです。
「更級日記」を読みましょうと言うことで、今回はやっと本文です。
あづま路の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめける事にか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつゝ、つれづれなる昼ま、宵ゐなどに、姉継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光る源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふまゝに、そらに、いかでかおぼえ語らむ。
すごいですね、これで一文です。
平安時代はまだ句読点がありませんが、付けるとするとここまででやっとマル。
なんだか気合いが入っているような気がするのは私だけでしょうか。
菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ・以下サラちゃん)が生まれたのは、本当は京都です。
西暦1008年。
お父さんの上総介(かずさのすけ)就任は1017年ですから、上総に行ったのは数えで10歳ということになります。
まあ、字は読めるけれど、当時の女子ならば、絵巻を見つつ、召使いや年上の家族が物語を読み聞かせるくらいの年齢、ということでしょう。
それも物語はどちらかというと娯楽であって、「読書」というか「勉強」は漢文や経文を読む事ではなかったかと思われます。
紫式部は兄弟に漢文を講義されているのを横で聞いていて兄弟より早く理解したそうですが。
サラちゃんもお兄さんが漢文を習うそばにいたのでしょうけれど、きっとつまらなかったんだろうなあ。
そして、物語を「自分で読む」楽しさを知らないうちに上総に引っ越したと思われます。
教養深い継母といえど、物語の本をたくさん持っていくことはできなかったようですね。
「持っていくなら四書五経と仏典!!」
と、お父さんが押し切ったのではないだろうか。
「たった4年だ、なくても大丈夫。なんなら取り寄せれば・・・」
なんて安請け合いしてね。
もちろん、上総で手に入れることなどなかなかできない。
というわけで、サラちゃんは周りの女性達が「覚えている範囲で語れること」しか聞くことが出来ないわけです。
源氏物語みたいに長い、何巻もあるような物語なんて、その中の一冊、どころか絵が一枚しかなかったりしてね。
それを見て、
「あら、これは若紫とすずめねえ。向こうに光源氏の君が描かれてるわ。この後、光源氏が若紫を引き取るのよね」
なんて継母が言ったりね。
「それで2人はどうなるの」
「ああだこうだあって結婚するのよ~」
「ああだこうだって?」
「いろいろよ~」
サラちゃんがイライラしてくるのが目に見えるようですね。
「いろいろの詳細が知りたいのよ!」
って。
つづく。