こんにちは。
T・たまもです。
オリンピックのスポーツクライミングが面白くて、昨日は更新をすっ飛ばしました。
今日は女子の決勝があるので、時間があるうちに書きます。
先週の続き、枕草子から、「ありがたきもの」。
残りふたつについてです。
物語、集など書きうつすに、本に墨つけぬ。
よき草子(そうし)などはいみじう心して書けど、かならずこそきたなげになるめれ。
平安時代は紙は貴重品、しかも印刷技術が未発達でしたから、読みたい本を手に入れるには人に借りて書き写すしかありません。
エライ人なら能書家に書き写させることもあるでしょう。
が、たいがいは自分で書く。
鉛筆もありませんから墨で書く。
書道をすると、なぜか思いがけないところに墨が付いていることがあります。
エプロンをしていない時に限って汚す。
マーフィーの法則みたいなものがあるんじゃないかと思う。
と、いうようなことを清少納言も感じていたわけですね。
返さなくちゃいけないのに、いい本に限って汚しちゃうのが腹が立つ、と。
「墨つけぬ」の「ぬ」は、完了の助動詞。
打ち消しの助動詞ではありません。
「~してしまう」と現代語訳します。
男、女をば言はじ、女どちも、契(ちぎ)りふかくてかたらふ人の、末までなかよき人、かたし。
これも、現代と変わりませんね。
男女の恋愛関係がはかないのは、現代も同じ。
とはいえ、平安時代の恋愛関係はペンフレンドでなければ、すぐに肉体関係。
お食事に行くとか、手を握るとかはすっ飛ばすことも多かったらしい。
いや、肉体関係を持ったあとにするのかな?
光源氏なんて「翌朝にやっと顔を見る」なんてこともしています。
まして、男は二股三股あたりまえ。
つまり、失恋の傷は現代より深いのではないか、という気がします。
同性同士なら、「ずっ友」ってやつ?
「でも、小学校のときの仲良しと、今ほとんど音信不通ってことない?」
と生徒に聞くと、図星という顔がちらほら。
最近はSNSの普及でつながりが続くと言うことも多いようですが。