こんにちは。
T・たまもです。
昨日の続きです。
本来、文学的文章が載らないはずの「現代の国語」の教科書に、小説が載っているものがある、というニュースをご紹介しました。
しかも、最多の採択。
高校の先生方だって、日本語のピンからキリまであるのなら、「一流の文章」を少しでもたくさん読ませたいでしょう。
悪いけど、「契約書」みたいな実用的文章は他の教科でたくさん読んでいるはずだもの。
(読み方、はともかく)
さらに言えば、「言語文化」(と、古典と近現代の小説詩歌をひとまとめにしちゃうのもかなり乱暴だと思いますが)というならまず、古典に時間をかけたい。
大学入試の得点源だしね。
かといって近現代の文学的文章を、中学校のように古典と混ぜて勉強するのは難しい。
だって、鑑賞ではなく分析なんだから。
だとしたら、せめて小説くらいは論理的文章と同じ土俵で扱いたいでしょう。
まあ、「羅生門」はともかく、「夢十夜」を論理的アプローチというのはちょっと工夫がいりそうですが。
そういえば、エッセイ、とか随筆、って、文学的文章ですか?
私は迷うことも多かった。
評論文は「問題提起」と「意見」と「理由・根拠」がそろっていないと評論とは呼べません。
随筆はそろっていないものもままある。
でも、そろっていないだけだからなー、ということで。
実際、そろっていると、著者が随筆のつもりで書いたものが教科書では「評論」として採録されるなんて良くあることです。
科学や哲学のような専門分野の文章だと特に。
詩歌には散文詩や叙事詩という小説みたいなジャンルがあります。
小説は本来「どんな書き方でもできる」分野。
たしか、筒井康隆がそんなことを書いていた。
全編評論になっている、という小説作品は少ないでしょうが、作品の一部が評論になっているなんてのは良くあります。
さて、次の検定では小説を載せた「現代の国語」教科書ばかりが出てくるのか、それとも文科省が小説を載せた教科書をすべて切るのか。
文科省と教科書会社、これからの攻防が興味を引くところです。