こんにちは。
T・たまもです。
昨日の続きです。
五木寛之の「雪の中の凍った本」というエッセイを取りあげています。
現在では、「本を読むことは人間にとってほんとうに必要なことだろうか?」と、考えることもある、と、五木さんは続けます。
「好きで読む」のと、「必要で読む」のなら、「好きで読む」ほうが正しい読み方だと、友人は言います。
「必要で読む」のは、読書に何らかの利益(情報を得るとか、人生に効用があるとか)を求める行為だから、邪道というわけです。
結果的に利益を得ることは良くあります。
時代劇なんか読んでると、「そうだったのか!」というようなトリビアをたくさん知ったものですわ。
筆者は本に熱中する少年と、成長するまで読書を待つ少年のどちらの方が望ましいのか、答えはわからない、と結びます。
当時の両親の気持ちはわかるようになってきた、と。
私個人の見解を言わせてもらうならば、読書の習慣のない子どもが、大人になってから読書をするのはすごく大変だと思います。
教科書以外の本を読んだことがない、というレベルの子どもですよ?
「字が読める」というのと、「読書ができる」というのは違います。
高校生になっても、教科書の短編小説さえ「え~、長~い」と言う子は少なくありません。
読書が趣味と言う私も、好きなジャンル以外の本を手に取ることはほぼありません。
長い文章を長い時間をかけて読むのは、やはり訓練のいることだと思います。
だから、わかろうとわかるまいと、読みたいと言うなら読みたい本を読ませてあげたほうがいいと思います。
少なくともこの令和の世では必要なのではないかしら。
少しは誘導するとしても、嫌いにはしたくないものね。