T's Cafe

小さな私の体験が、もしかしたら大きなヒントになる・・・かもしれません。前は学校の先生、今は自適のご隠居とおしゃべりしましょ。

美しい魂を持つのは、熊か人か? 「なめとこ山の熊」その7

 こんにちは。

 T・たまもです。

 今週は「なめとこ山の熊」の授業のデザインについて考えています。

 物語の初めでは、小十郎は家族の生活のため、猟師であることを受け入れています(=人間は熊とは違うと思っている)。

 それが、熊の母子の会話を聞き、撃つことを控えます(=熊も人間と同じだと気づく)。

 生徒は、これが猟師(=他の生き物を犠牲にして生きる人間)としてはまずいことに気づきます。

 次に、荒物屋の登場により、人間界にはさらに人間同士の上下関係、搾取の関係があることが明示されます(=人間の醜さに嫌気が差す)。

 これは、荒物屋の傲慢さ、強欲さだけでなく、それに甘んじなければならぬ小十郎自身の卑屈さ、情けなさ、人間社会の理不尽なしくみも含みます。

 次に、約束を守って小十郎のために自己犠牲となる熊に小十郎は手を合わせます(=熊は人間より尊い魂を持っていると気づく)。

 気づいてしまった以上、もう熊を撃つことはできません。

 この段階で、もはや猟師として小十郎は生きていけないことに生徒も気づきます。

 つまりは小十郎は死ぬしかないのだということです。

 では、どのように死ぬのか。

 ラスト、小十郎は熊に殺されることを受け入れています(=自然界の摂理を受け入れた)。

 そこには恨みも未練もありません(=輪廻から卒業できる魂に成長していた)。

 

 人も動物も(一切衆生、ということでしょうか?)平等なもの、と言う意識が、宮沢賢治にはあったようです。


 生徒からは、「残されたお母さんと子どもたちはどうなるの?」という悲鳴が聞こえてくるのですけどね。

 

 うっかり熱く語って、長くなりました。ご容赦下さいませ。