こんにちは。
T・たまもです。
今日は、現代文の中から「お月見」を取りあげてみましょう。
「お月見」は、小林秀雄の短いエッセイです。
私が使った教科書では「天の橋立」という作品と一緒に採録されていました。
小林秀雄といえば、20世紀日本を代表する評論家。
高等学校の国語の教科書には必ず載っていた人です。
最近はあまり見かけなくなっている気もします。
教科書には「無常ということ」が載っていることがほとんどだったと思います。
ある程度の年齢以上の方は、習った記憶とともに「全然わからなかった」という感想が刻まれているのではないでしょうか。
私もそのひとり。
未熟な高校生にこういう文章を読ませるのもいかがなものかと思うけれど、こういう文章を読めないと大学には行けないのだわ・・・と、覚悟させる文章であったことも確かです。
といっても、その後小林秀雄をプライベートで読んだことは、ほとんどないのですけどね。
だって、難解でも小説の方が面白いんだもん。
で、この「お月見」ですが、さすが小林秀雄という感じの目の付け所ながら、小品なので「ちょっとした気づき」だけで話が完結しているので読みやすいんです。
この「お月見」は、文化論。
日本人特有の自然に対する「感覚」が日本の文化の基礎になっている、という話。
「感覚」ですから、理論で作られるものでもなく、意図的に脱却できるものでもない。
そしてそれは恥じるべきことではない。
そんな趣旨の文章です。日本人の「感覚」は絶対的に変えることのできない宿命であると述べています。
(皮膚の色を変える自由がないのと似ている、とけっこう不穏な比喩をしています)
でも、それは日本人だけに限ったことではないでしょう。
自国の、あるいは自分自身のルーツの「感覚」を基礎とした文化を否定することは、結局は自分自身の、また相手の否定につながってしまいますから。
「多様性」というキーワードで、この古い文章も、実は現代に通用する気がします。